ニーズがない、だからやろう。
「裏話をするとですね……」物件の取得に携わった、シマダアセットパートナーズ株式会社執行役員の志村俊輔さんは、多忙の合間を縫って当時の話をしてくれます。
「もとは『葉山あたりに介護施設ができれば良いのに』という社員の声から探し出した物件なので、一棟ここを老人ホームにするつもりでした。ただ目の前が海というロケーションですし、ホテルのニーズもあるのでは?となったんです」
さっそく調べてみたところ、葉山や、お隣の逗子には、ホテルが極めて少ないことが明らかに。そう、東京から日帰りできる距離ゆえ、わざわざ泊まる必要がないのでした。通常ならここで「ニーズがない」と敬遠しがちですが、志村さんは「ないからこそやろう」と決意、至った発想が「介護施設×ホテル」の複合にすること。シマダグループとしても、両方を併せ持った施設は初の試みです。「イメージはずっと持っていましたし、ここならかなえられるかもしれないと」期待を膨らませ、プロジェクトは動き始めました。
うみを感じる、さまざまな工夫。
もとあった建物を生かすのは、シマダグループのお家芸。「ただ非常に立派な建物なんですが、ちょっとクセがある。うまく活用するのは、難易度が高いなと感じました」と志村さん。とくに悩ましかったのは、一階の“広すぎる”研修スペース。トレーニングジムにするのか、はたまた卓球台を置くか。さまざまな案が出た中で決定したのは、カプセルタイプの部屋を増設すること。
デザイン面で関わったクリエイティブディレクターの太田幸代さんは言います。「もともとホテルは少ないのですが、気軽に泊まれる場所は特に少ない。さらに一泊だけでなく長く滞在して、より葉山という地を感じて欲しい、そこで利用料が低い客室を作りたかったんです」採用したのは、温かみのある木材。石垣島のゲストハウスですでに経験済みゆえ、比較的スムーズに事が運びました。
また施設全体を貫くデザインテーマは「うみを感じる」に。「海を上から見たイメージが一階のゾーニングに反映されていて、床が砂浜っぽかったり、横には波打ち際をトレースしたような円形のソファベンチを置いたり。そして奥は、深海を思わせる色を空間の中で立体的に落とし込んでいきました」さらに、地域在住のアーティストに照明やオブジェなどの制作を依頼。漂流物をインテリアの一部として飾るなど「中にいても、うみを感じる」ための、さまざまな工夫を凝らしたのです。
不安を乗り越えさせたもの。
「想像していたよりも大きくて、若干腰が引けてしまいました(笑)」と、第一印象を語るのは、ホテルの支配人である鎌塚俊明さん。「以前は小さな簡易宿で働いていましたので、規模が大きくなると従業員数も増えますし、意識の統一など難しいのではないかと」さらに比較対象となる宿泊施設が少ない分、値段設定などにも四苦八苦したよう。「ただコンセプトはしっかりしていて、デザインも明るい感じなので、空間にマッチした立ち振る舞いを意識しました。また志村さんが地域とのつながりを構築してくれていたのもよかった。いいパスをいただけました」
そうしてホテルは無事、開業へと至った、一方。別の意味での心配を抱えていたのは、高齢者向けのサービスレジデンスの運営を担う鎌田えりかさん。当初はふわっと「海の近くに介護施設ができるらしい!」と耳にし、期待に胸膨らませていた彼女、しかしよくよく聞くとホテルとの併設と知り、一気に不安に。そう、感染症リスクです。
「高齢者を預かるわけなので、何か事故が起きてはいけない。入居者がホテル側のフロアに行ってしまわないか、行ったらどうするのか」当初は懸念していなかった問題に神経をはりめぐらせる日々でした。「海が見える意味があるのかな?内装がおしゃれである意味があるのかな?と。正直、建物を楽しむという視点はありませんでした」
それが「ストンと落ちた」のが、とある入居希望者の見学に立ち会った時のこと。「その方は、ステージ4のガンを患われている方で。美しい海が見えて、温泉に入れるところで、人生の一番最後を過ごしたいと聞いて、ここにホームがある意味を感じたんです」
うみのホテルの本領が発揮されるのは、まだまだこれから。鎌田さんは期待を込めて言います。「ホテルと介護施設の明確なボーダーラインがもう少しなくなっていくと、もっと面白くなる。実現できてよかった、と思えるものになると思います」