2022.03.25

私が復職した理由

十数年前、設計事務所で 毎日黙々と建物の図面を描いていた日々。
そこでは、自分の引いた線が実現することはありませんでした。
私は、自分が設計した建物を作りたいと、転職を決めたのでした。

シマ報 > 不動産事業 > ディベロッパー > 私が復職した理由
Summary
  1. チームシマダの一員に -1度目の入社-
  2. 乙女心はムズカシイ
  3. 再びチームシマダに -2度目の入社-
  4. 浦島太郎が気付くこと

チームシマダの一員に
-1度目の入社-

1度目の入社をした時のシマダグループは、世田谷区千歳烏山を拠点にした社員数60名程の不動産会社でした。社員はみな個性派揃い。自由で縛りが少なく、仕事も遊びも一生懸命、全員で同じ方向に突き進むという気概ある人の集まり。それは、今も変わらない社風で、私がそれまで勤めていた設計事務所とは違った魅力がありました。

 

入社当時のシマダグループは新宿移転計画の真っただ中。同時にディベロッパー部門を分社化したシマダアセットパートナーズ株式会社(以下 SAP)の設立が進められていました。SAPのリーダーは佐藤 悌章専務(現社長)、初期メンバーとして8名が発表され その中に私の名がありました。少数先鋭で成果を上げていこう!と気運が高まる中、即戦力とは程遠い私は、申し訳ないと思いながら、早く一人前になるぞ!とこっそりと意気込みました。

手掛けた物件 左)グランエッグス学芸大学 右)上北沢の戸建て

乙女心はムズカシイ

そんな私も、いよいよ物件を任せてもらえるようになり仕事が楽しく、忙しくも充実した日々を過ごしていました。

 

歳はいつしかアラサーに。この頃の乙女心は嵐のように様々な気持ちで荒れ狂うものです!??

 

自分はこのままでいいのだろうか・・・

何かを変えるなら今なのではないか・・・

今、変えられなければこの先も何も変えられないのではないか・・・

 

と、何かに取り憑かれたように焦りはじめ、“今いる場所から離れてみよう”と思い至りシマダグループの卒業を決めたのでした。

 

卒業後、思い描いていた劇的な変化はなかったものの、結婚、出産というライフイベントがあり、自然な流れで何かが変わり、あの頃何をそんなに焦りどんな変化を求めていたのだろうと思うのと同時に、建築と真正面から向き合っていたSAPにいた頃を懐かしむ気持ちがわいてきました。

再びチームシマダに
-2度目の入社-

卒業から約4年後、SAP設立10周年パーティーが開かれ卒業生として出席させてもらいました。パーティーではシマダグループ・SAPのその後を知ることとなり、SAPが手掛ける事業規模、建築のレベルが大幅に成長していることを知りました。

 

華々しい発表が眩しく映り、そこに自分が居ないことを寂しく思い、ついその気持ちを口にしていました。そのつぶやきを建築スタッフ募集のタイミングに思い出していただき、2度目の入社というチャンスがやってきました。

 

 

復帰後に手掛けた自由が丘の戸建て

浦島太郎が気付くこと

シマダグループ・SAPに復帰すると、社内の変化に驚くことばかりでした。

シマダグループの社員数は約3倍になっていました。SAP建築メンバーも倍となっており、しかもその半数が女性に。(1度目の入社時は女性は私一人でした)優秀な方々が加わりSAP全体のポテンシャルも上がっており、掲げられた目標は以前とは桁違いで戸惑いました。ブランク期間の埋め合わせは今なお続いていますが、レベルアップしたSAPでの仕事に充実した生活を再び送らせてもらっています。

 

 

一方で、会社も変化しましたが私にも変化がありました。家族ができ昔のような働き方は難しく、時短勤務となりました。限られた時間でできる仕事には限度があり、肩身の狭い思いをするのでは、と思っていましたが、そうした思いをすることは全くありませんでした。この数年で女性が働きやすい環境づくりが進んでいたようです。

 

こうした変化を感じつつ、事業の垣根を超えてお互い興味を持ち、意見し、協力しあうところなど変わらないシマダらしさもあちらこちらに感じます。

少々の紆余曲折がありましたが、再びシマダグループの一員となり嬉しく思っています。

 

 

 

最後に出戻り社員から一言。

『イマドキ復縁もありでしょ?』

一度別れた恋人とよりを戻すのと、似ていると思うのです。一時的な別れは、お互いをちゃんと理解する時間となるかもしれません・・・

ということで、恋人とも会社とも別れは喧嘩別れではなく綺麗な別れの方がよさそうです!?

 

Related Articles